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「武道教育と無意識G」 格闘Kマガジンの読者のみなさん、こんにちは。元気ですか、禅道会の小沢です。春爛漫の季節となりました。この時期から五月一杯までの深緑の頃までが、私の一番好きな季節です。冬の間、静かに忍んでいた生命達が一斉に活動を開始し、書斎で書き物をしていても命の躍動を感じます。自然の中には、人工的に装飾された小道具をひねくりまわして得られるつかの間の日常離脱感とは桁違いの感動があふれています。そんな感動を味わうことが、生きている意味を知ることの手がかりとなることがあります。 このコラム連載四回目の「武道教育と無意識C」でも記しましたが、私が「無意識」の存在に気付くきっかけとなったのが、桜の花を観た瞬間の感動でした。もう十余年も前の、ある春先の日のことです。少年期より私を苛み続けてきた内的不確実感(生と死に対する感情的自己矛盾から生じる孤独感)や、それを解決し得ない武道に対する疑問。当時、保護者から頼まれて預かっていた子供達や、道場生に対する指導上の迷いに苦しめられていた私は、これから彼らをどのように指導していくべきなのか、そして何より自身が目指して来た道は正しいのか・・・何度も自問自答を繰り返していました。この私の抱く悩みは、そして、疲労感は一体どこから来ているのだろうか。人間の心の実態とは一体何であるのか、そう考え続けていたのです。その頃、心も体もバラバラになりそうな感覚に苛まれていた私は、「早く桜の花が咲いてくれないかな。桜の花が咲いてくれたら、どんなにか気持ちが慰められるのに」そんな思いを募らせながら、いつもの桜並木のランニングコースを走り続けていました。「今ある私の意識は、私をコントロールしているものは何者か・・・」そんな時、瞬間的に、また確信的に感じたのです。ふと空を見上げると、昨日まではまだ膨らんでいた蕾だった桜が、一斉に花を咲かせていました。待ち望んでいた桜の花が咲いたのを観た時、私は初めて自分自身の心を苛み続けていたものの正体に気付きました。 置き、部分の中だけでどんなに小細工をしても、問題の根本的な解決は望めません。私達には、自らの命と向き合う個人責任が存在しています。自我は命との約束を守らなければなりません。近代の社会や教育は、自我を守ることのみを大切にして、自らの命と向き合うことを避けて来ました。その結果、心の内なる自然が破壊され、自然環境も破壊されて来たのです。自らの心の問題は、決して自分だけの問題ではありません。他人に迷惑をかけなければいいと開き直る問題でもないのです。社会現象と心のあり方、個人の人生と心のあり方、また、身体と心のあり方は、目には見えなくてもつながっているのです。 話は変わりますが、読者のみなさん、一度信州に遊びに来ませんか。私の住む飯田市は南信地方に位置し、西側に中央アルプス、東側には南アルプスと三千メートル級の山々に囲まれた盆地の中にあります。二十年ほど前に飯田市の南側にあたる「阿智村」という所に温泉が湧き出て、その一帯は温泉街になっていますが、北信に比べると観光地は少なく、それだけに手つかずの自然が残っています。私の一番のお気に入りの場所は、飯田市から車で約一時間ほどの所にある「大鹿村」という、人口二千人足らずの小さな村です。南北朝時代には、南朝方の「後醍醐天皇」の第八王子「宗永親王」という人が、この地方の南朝方のゲリラ戦の本拠地として隠れ住んでいた村だそうです。(間違っていたらゴメンナサイ)村には「宗永親王」のお墓も現存していて、そこを訪れると松雄芭蕉の「夏草やつわものどもが夢のあと」などの俳句を連想させ、もう気分は「奥の細道」です。飯田市から松川町へ、松川町からは川沿いで狭く、ほとんど人家のないうねり道を約三十分、突然密集した人家が現れ、私も初めて大鹿村を訪ねた時には「こんな所に村があったのかぁ!」と大変驚かされました。最近は、私も大分忙しくなってしまい、なかなか行けなくなってしまいましたが、それでも年に二、三回はこの村を訪れます。この村の中心部からさらに車で十五分、実は、我々禅道会の隠れ家、常宿にしている「かねやす」という民宿があります。この民宿のサービスは恐らく世界一、鹿の刺身に岩魚の刺身、猪の焼肉だの手作りこんにゃくだの、野性味あふれる食べ物がこれでもかという位、所狭しと囲炉裏を囲んだ食卓に並べられます。その量たるや禅道会一の大食漢といわれる、広島支部長の秋山賢治君でもとても食べ尽くすことは出来ません。その上、チェックインチェックアウトなどはなく、宿泊した朝食後、朝寝を楽しんでいると、宿のおかみさんの「昼ご飯も食べていって」との一言。遠慮なく頂いていると、さらにはスイカのデザート。子供の頃、親類の家に遊びに行った時のことが思い出されて童心に帰ります。(このような退行なら健全です)巡る山々や、囲炉裏の赤い炎を眺めながらビールグラスを傾けていると、本当に極楽、時にはこのような時間も必要です。読者のみなさん、ぜひこの宿で、人生のこと、武道のことなどを私達と一緒に語り明かしませんか。 実は禅道会では、有志が集い「NPO法人文化教育活動支援協会」というNPO法人を設立し、文化と教育の総合雑誌「ゆう」を発行したり、『歩く旅、かねやすで語ろう会』など、様々な文化活動を行っていて、イベントに参加する人を大募集中です。武道をやっていない人も大歓迎、是非ご一報下さい。(尚、このNPO法人の代表者は、長野県の最南端にある阿南町という町の女性道場長で、二十歳位までは洒落にならないほどの酒乱だったのですが、武道で立派に更正し、大変やさしい女性に成長しました。バーリトゥード空手は、女性も男性もやさしい人ばかりなので、ご安心を) さて、いよいよ次号より、武道習得課程の中で、具体的にどのようにコンプレックスと向かい合っていくのかを、順を追って述べていきたいと思っています。武道は宗教ではありません。また、心理学でもありません。読者のみなさんには、武道をわかりやすく説明するために心理学的手法で説明を試みて来ましたが、あくまでも武道は、武(格闘の現実性、実践性)を追及することにより、自分を冷静に省みる中で自らを悟るものです。身体性を省みない現代教育のように、心や意味が身体を離れて一人歩きをしてはならないのです。身体性の完成こそに、武道本来の意味があり、形から入ることにより、心を宿せるものなのです。続きは次号にて。 |
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