「武道教育と無意識M」

格闘Kマガジンの読者のみなさん、元気ですか。禅道会の小沢です。天高く馬肥ゆる秋、実りの秋です。秋といえば紅葉、秋は色彩の美しい季節。しかし、実は私は秋があまり好きではありません。迫り来る厳しい冬の訪れの足音を聞くようで、どうも苦手です。いっそ冬になってしまえば覚悟もつくのですが。何故でしょう?自分でも不思議です。私の記憶にない幼児体験(無意識)と何か関係があるのでしょうか。苦手な事柄の中から自らと向かい合うのが武道、私自身人生半ば、人間一生修行です。今年の秋はきちんと自省し、何かの実りをと思う今日この頃です。お互いに頑張りましょう、みなさん。

 前号では、自らと向き合うこと、つまり自らの無意識を振り返り、自分の無意識に潜む敗北や失敗の原因となりやすい、自我防衛メカニズム(無意識を守ろうとして、意識にとって都合の悪い経験や思い、心の傷等を、無意識下に追いやり、意識には上がってこないようにする、それ自体が無自覚なメカニズムのこと)を用いることによって形成されるコンプレックス(普段は自覚することのない、ある感情を伴ったイメージの塊)自体をよく知り、それを足がかりに、様々な経験から生じる自らの心の動きの本質を追求することが、技の習得や心の成長につながる。しかしながら、具体的にどう向き合えばよいのか、意識(主観)は常にコンプレックスの強い影響を受けているため、主観(意識)を頼りにする限り、主観的事実と真実の間にはズレが生じ、技の習得や心の成長の妨げとなる場合があると記しました。このコラムでは、素質や体に恵まれなくても、敗北の原因と正しく向き合うことにより、技も心も成長すると再三記してきましたが、敗北の原因をコンプレックスの影響下にある主観(意識)でいくら振り返っても、それでは原因と向き合うこと自体に歪みが生じてしまい、自らを省みようとすればする程、迷いの迷路にはまってしまうことすらあります。また、コンプレックスの全体的な傾向は、3歳までの体験によって形づけられてしまうため、主観(意識)が常にコンプレックスの影響を受けていることを思えば、その頃の体験がその人の性格や運命を決定付けてしまうことになり、まさに人生が運命任せとなってしまいます。高い身体能力を有し、素質に恵まれた人が全体の中のほんの一部であることと同様に、3歳までの体験や環境が非の打ち所のない人はほんの一部の人達であって、探すのが難しいくらいだと思います。そのようなことでは、強くなれる人、心が成長できる人は、全体の中のほんの一部の人ということになってしまい、私達凡人には生きることの意味もなくなってしまいます。前号でも触れましたが、主観的事実と真実との間のズレを極力最小限に抑え、このようなパラドックスを抜け出す具体的な体系を備え、万人に門を開いているのが武道なのです。格闘技と武道のカテゴリーの違いは、当然技の習得過程の違いでもあるのです。それでは、コンプレックスが形成される過程の中、どのようにコンプレックスが私達の身体の動きに関係しているのかを説明しながら、武道とは何かを、順を追って説明していきたいと思います。

 それではまず、これまでの復習としてコンプレックスの形成過程を説明していきます。人間の脳はすでに情報がインプット済みの古い脳と、新しい脳に分かれていると、この武道教育と無意識コラムIに前記しましたが、経験と学習により発達する大脳新皮質は、生まれた時はほとんど存在しません。様々な学習や経験を通して、大脳新皮質が発達する過程で形成されると考えられる自我(意識)は、古い脳に元々インプットされた情報を外的情報により、より複雑化していきます。その過程の中で、元々は環境との調節を図るために行われる自我防衛メカニズムは、自我の成立過程で意識(自我)を守るための働きに、その方向性を変えていきます。そのため、自我(意識)を不安定にする外的要因を無意識の世界に押し込めたり、その意味付けを変えたりして、自我(意識)への不安定要因からの侵食を防衛しようとする訳です。そして無意識の世界に様々なコンプレックスが形成されることとなります。また各々個人のコンプレックスは、同一の体験や同一の自我防衛メカニズムの組み合わせが成立しないため、類似のコンプレックスは存在しても、同一のコンプレックスは存在しません。コンプレックスは、無意識下に存在しているので意識されることは少ないのですが、私達の主観(意識)に常に強い影響を与えているため、一つの事柄に対してのそれぞれの感じ方が違うのは、コンプレックスの違いであるともいえます。後天的にできた無意識の心の習慣のことを、心の性質としては「性格」と呼び、動作や仕草に表れる身体的運動を「くせ」と呼びます。また、コンプレックスはエス(原始的衝動)の上に形成されるため、原始的欲求をちょうど光を屈折させるプリズムを通したように変形させ、意識に影響を及ぼしています。そのことをもう少しわかりやすく説明しますと、自我(意識)領域の少ない動物、例えば犬であれは、人間に服を着せられたメス犬を、服だけ単体で見ても性的欲求を刺激されることはありませんが、人間の場合は洋服・下着等でも原始的領域の性衝動を、コンプレックスが変形させて意識に影響を及ぼすため、衣服を見ただけで強い性衝動を感じる人達がいます。人間世界にのみ様々な性の嗜好が生じるのと同様に、他の様々な嗜好についても、人それぞれの違いが表れるのは、コンプレックスがエス(原始的欲求)と意識(自我)に強い影響を及ぼしているからなのです。また、例えばスポーツの世界でも、身体能力以外で、あの選手はセンスがいいとか悪いとか称されることも、原始的領域の一部と考えられる運動神経の上に、環境要因(例えばお父さんが一流のスポーツ選手だった場合、子供の頃からそのスポーツをよく観戦したりする場合)で、形成されるそのスポーツのイメージ(コンプレックス)が、そのスポーツの動きに影響を及ぼすためです。

 読者のみなさん、暗い所を歩いている時、急に大声で驚かされたらどうなりますか?その時あなたは、運動神経の一部である反射機能が刺激され、ビックリするはずです。もしくは、道を歩いていて突然凍った場所で足を滑らせ、バランスを崩す時、あなたは反射機能を駆使して転倒することを防ぐはずです。その時、極端に慌てているため意識のコントロールを失い、反射機能に押し上げられる形でコンプレックスが無意識的仕草となり、人それぞれのリアクションの違いとなり表れるのです。(確かに人生色々です。―K首相語録より―)

 そのことを格闘技に照らし合わせて考えてみると、例えば格闘技を習いたての頃、ローキックを足に受けるともの凄く効いてしまうのですが、キャリアを積んでくると、もろに受けても最初の頃より余り効かなくなっていきます。それは経験を経て、反射機能が五感を駆使してそのローキックの質量に対して拮抗できるだけの力や姿勢を覚えるからです。蹴られている箇所が頑丈になると考えている読者のみなさんもいるとは思いますが、原則的に言って、蹴られた部分が強くなるということはありません。ボクサーが体を鍛えていてもローキックに対して耐久力がないのは、ルール上ローキックのないボクシングでは、ローキックを受けるための反射機能が育っていないからなのです。このことはある意味、対象物に接するための人間の動作の基本となっていて、生卵を人が握りつぶさないのも、豆腐を崩さずに箸で運べるのも、経験に基づいて対象物と拮抗する力を、反射機能が学習していくからに他なりません。歩くという動作も、反射機能が地面の摩擦や凹凸を無意識的に判断して、歩くという動作を成り立たせているのです。ところが、反射機能が予測不可能なこと(バナナの皮を踏みつけるとか、氷の上を歩くとか)が起きると、反射機能に混乱が生じ、大きくバランスを崩すか転倒することになります。当然、この反射機能は無自覚で行われるため、特に急場の時には、意識のコントロールは極めて難しい状態となり、その時動作的くせとして表れるコンプレックスは、前にも説明しました通り、失敗体験の反映である場合が多いため、更にバランスを崩すことに拍車をかけることがあるのです。しかも何度も申し上げている通り、反射機能もコンプレックスも無意識的に働いているため、意識での修正が難しいのです。これに対するアプローチとして、近年のスポーツ界では、自己催眠によるイメージトレーニング等を行い、無意識にできるだけ良いイメージを作り上げ、コンプレックスによる動作への影響を改善しようとする試みがなされてきました。それにより、勝利するためのイメージが細かく植え付けられ、無意識に擦り込めば、競技中の動作を改善できると考えた訳です。プラス思考という言葉もそうした背景の上に成立してきたのでしょう。

読者のみなさん、またしても「おや?」と思われませんか?実は、武道教育と無意識@に登場した精神医学の祖ともいわれるジグムント・フロイトは、ヒステリーの治療法として行った催眠療法に不備を感じ、その治療法に限界を感じ、精神分析を提唱したのです。言い換えれば、自覚の伴わない催眠療法では、一過性の効果はあったとしても、コンプレックス自体の改善は難しいと考えたからなのです。近年話題となった能力開発セミナーや、カルトの洗脳法なども、後催眠暗示を利用した一種の催眠であることを考え合わせれば、催眠には精神荒廃を引き起こす危険性もあると考えられます。禅道会の研修寮に住み込み、現在寮長を務めるU君は、試合で負けが込んだ時、私の所にやって来て、「先生!僕に試合で勝てるように暗示をかけて下さい!」と涙ながらに懇願するので、私は彼に、「アホだなぁ、お前は。アホなのは顔だけにしてくれ。他人に洗脳されてたまたま試合に勝ったとしても、そこに何の意味がある?もっと武道の意味を考えてみろ。バカタレ!」と諭したことがあります。

読者のみなさん、驚くべきことに日本の文化の叡智は、精神に起こり得る様々な危険を避け、自己をより深く自覚する術を知っていたのです。十余年前の春先に見た桜の花の下で、私は先人達の叡智を観じ取ることができました。その時私は、先人の叡智の中に生かされている自分自身を発見し、礼の意味を知ったのです。続きは次号にて。

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