「武道教育と無意識J」

格闘Kマガジンの読者のみなさん、がんばってますか。禅道会の小沢です。読者のみなさんの中でも、格闘技や武道に現在取り組んでいるみなさんは、これから始まる競技シーズンに備えて、練習に稽古に励んでいることと思います。まだ格闘技や武道をはじめていないみなさん。これからの暑くなる季節に、ぜひ格闘技をはじめてみませんか。これからの季節は、なぜか稽古後の仲間との雑談がとても楽しく感じられますし、飲み交わすビールの味はもう最高。幸せ感が他のシーズンと違います。身体を通してのコミュニケーションならではのこの感覚を大切にして、今年の夏もお互いにがんばりましょう、みなさん。

さて、前号では、人間の脳は大きく分けて古い脳と新しい脳に分かれていて、本能的衝動(エス・イド・原我)や、基本的な喜怒哀楽は、すでに身体や古い脳に入力状態で生まれてくる。そして、人間を人間たらしめている新しい脳(大脳新皮質)は、理性や創造性など、人間に特有の精神活動を担当していて、生まれた時にはほとんど存在しないが、身体的コミュニケーションや経験、学習、環境等によって発達し、この大脳新皮質が成長する過程で自我(意識)が形成され、入力済みの情報(エス・感情等)を出力させたり、外的情報を入力させたりしながら、心を高度で複雑なものに発達させていく。このことを一口に言うと、原因(身体や古い脳に貯えられている、元々入力されている情報)に対して、要因(他者との身体的コミュニケーション・学習・経験・環境等)が加わることにより、身体的な運動(表情・言語・動作・様式)を伴いながら、それらの意味を知り、他者との関係性を育みながら、心を成長させていくということになります。やはり前号でも触れましたが、人の心の発達を促す脳の出入力は、全て運動が伴うことを考えれば、教育の原点である幼児教育は、正に礼を形を伴った動作として学ぶことであるといえます。

私達人類は、死者を埋葬する習慣を持っています。進化の過程の中で、知性を獲得した人類は、全ての生命の宿命である死を、地球上の生物の中で唯一自覚するようになりました。そして、自然と命と向き合うこと、命に礼することを覚えていきました。また、命に礼することによって生じた心の発達が、あらゆる文化を生み出す源ともなったのです。私達日本人は、大自然に対する礼、命に対する礼、人に対する礼を、特に大切に感じてきた民族であるということは、現在の生活様式の中からでも、うかがい知ることが出来ます。命に礼することが原点となり、心が大自然を彩る色彩のように、あらゆる文化を生み出すイコール、心の成長なのだということを知っていたに違いありません。故に心の成長を促す教育の原点は当然、礼することを覚えることから始まるのです。言い換えれば、原因である自己が、要因であるコミュニケーションをはじめとする様々な出来事から、目を背けず、どう向き合うかということなのです。

さて、それでは、武道における原因・要因の相互関係について説明していきたいと思います。まず一般的に言って、あらゆる競技(要因)は、競技ルールの上で、勝利することを上達の目安とすることにしていて、武道も例外ではありません。また、競技(要因)するということは、上達する上での絶対的必要条件であり、他者や他のグループと競技(コミュニケーション)することにより、自己や自グループの競技上の技術的短所や長所、または練習方法の欠点(原因)について省みることとなり、競技から生じた問題点をクリアーしようとするため、技術向上につながっていく訳です。そのため、競技(要因)を行なわずに、練習(原因)のみを繰り返しても、自らが悟れないため上達が望めません。また、競技を軽視しがちな意味付けがなされた身体表現文化も、上達の基準が曖昧なため、レベルがまちまちになってしまい、わかる人にしかわからないというような事態が生じてしまいます。原因と要因という因果関係がきちんとしていることが、あらゆる技術を向上させるための大原則です。原因と要因の因果律を超越して、技術向上出来る天才肌の人は、一種の特異能力者であり、万人に当てはまることではありません。原因と要因とに緻密で深い相互性が認められることが、練習方法の良し悪しを見極めるキーポイントと言えるでしょう。

では、スポーツと武道の違いはどこにあるのでしょう。まずは、要因の方面から説明させて頂きます。スポーツは勿論全てとは言いませんが、生活を豊かにするため、誰もが楽しめるゲームとして、生活に余裕のある階層から発祥したもので、発祥した国の風土の影響を受けながらルールを整備し、ゲーム性を高めながら、時代とともに競技人口を増してきました。また、近代では、スポーツによる体力の向上や、一定の教育的成果が認められ、学校教育に導入されるなどの側面と、そのこととタイアップするように、プロスポーツやオリンピックに代表されるように競技性を重視し、スポーツを観て楽しむ人口の増加とともに市場性も確立され、それらの要因が、スポーツをよりテクニカルなものへと発展させてきました。それ故、より市場性が確立されているか否かで、各スポーツがメジャーかマイナーかという認識はあっても、各々のスポーツの競技性自体の価値が比べられることはほとんどありません。ところが、武道(この場合、格闘技も含みます)は、その発祥理由を大まかに言えば、ほとんどがセルフディフェンス(護身)に帰するため、各々の格闘技や武道が競技化されてスポーツ的には別競技になっても、一昔前までは、どの格闘技が最強か!というような議論が巷を賑わしていました。空手道は、競技化の歴史が他の武道に比べて新しく、また、たくさんの流派・会派は分かれていて、競技方法もそれぞれ違っているため、競技的には別スポーツですが、空手道が多く分派する原因の一つが、実戦性、格闘性(護身性)に対する主観の違いが、競技ルール作りに各々の違いを生じさせてきたことは間違いありません。前記した通り競技は、競い合うこと(要因)によって上達します。そして、その競技ルールによって稽古や練習方法(原因)は変化します。このため、武道の競技は勿論、安全性は考慮しなければなりませんが、出来るだけ主観を交えずに、ルールの束縛を極力少なくして、自然な形での格闘に近いことが要因として望まれるのです。

私達の社会は、戦後から、ダムや護岸工事に代表されるように、自然に手を入れ、自分達がより快適に、より安全に暮らせるようにと生活環境を整備してきました。また、経済的な安定と、そこから生じる物質的に満ち足りた生活こそが幸福をもたらすと信じ込んできました。そうした身体から離れた幸福という概念の一人歩きが、青少年を取り巻く教育現場や、社会環境にも影響を及ぼすようになったのです。両親は、出来るだけ子供の自我を傷付けまいとして、将来への経済生活に支障のない生活環境を整えることに腐心し、学校や社会も、子供の自我を傷付けることを恐れ、そうした風潮が子供達の無意識にも影響し、人間同士のコミュニケーションを怖がる、傷付きたくない症候群のような現代社会のあり方自体、青少年の心を成長させるための悪要因(社会で経験する全てのことは、青少年の成長過程の中の全ての要因)となり、人の無意識(原因)を変化させます。要因を考えてみた場合、素晴らしい自然環境の中で、子供達を遊ばせるのと、コンクリートで塗り固められた公園で遊ばせるのでは、どちらが有意義でしょうか。よって武道の競技ルールもまた、出来るだけ自然であることが望まれるのです。自然の中、生身の人間同士のコミュニケーションが、人の心を育てるための善要因となるのです。そのために私達は、勇気を持たなければなりません。自我が傷付くことを恐れてはならないのです。私達の意識は、また主観は、無意識に潜むコンプレックスに普段から強い影響を受けています。無意識があるという前提を認識することが、自らを省みることにつながり、コミュニケーションすることの恐れを、勇気に変えることが出来るのです。

私達の社会は、意識が心全体であるという強い後催眠暗示のような錯覚に縛られているのです。何度も繰り返しますが、私達の意識は心の一部であって、決して全体ではありません。自己(原因)と自然や他者との生身のコミュニケーション(要因)が、私達の心の中に住む、強い後催眠暗示のようなコンプレックスから私達を解放してくれるのです。そして、私達の周りを取り巻く要因全てを、無意識の底から選択出来るようになり得るのです。

次号は、原因である自己が、様々な要因をどうとらえていくのか、ということを説明していきたいと思います。また、格闘技と武道のカテゴリーの違いについても詳しく説明していきたいと思います
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